南三陸病院・総合ケアセンター南三陸

ー 公立志津川病院復興のプロセス ー

MinamisanrikuHospital & Comprehensive Care Center Minamisanriku,Process in the Recovery of Shizugawa Hospital.
津嶋 功 / TSUSHIMA Isao.

プロポーザル敷地の調査のために南三陸町を訪れたのは、2013年1月のことであった。震災から2年を迎えようとしているのに、その傷跡は生々しく、しかしバスから見える景色には色がなく、現実感のないモノクロの世界が続くばかりであった。

町は本当になくなったのだ。

1. 消えた風景

南三陸町では、震災直後から佐藤町長の強いリーダーシップにより、高台移転の方針が打ち出されていた。多くの町民の方が大津波の犠牲になったその場所に「あなた、戻れますか」という町長の言葉は重かった。

プロポーザル公告当時、被災した公立志津川病院の移転先はまだ山林であった。これから造成をしてこの山を平らにするという。その残土を被災地域の嵩上げ盛土として利用するという。目の前の山林が目線から上が消えるということと、志津川地区のほとんどが消失した事実が、同じように信じられない出来事として、とんでもないことが起きたのだとようやく実感させられた。

震災被害の甚大さについては多くの報道がなされ、公立志津川病院の被災状況も数字的には捉えられても、その場を体験した病院関係者の悲痛な思いの底は、なかなか窺い知れなかった。目の前にして直接窺うことも憚られた。

しかしいつも笑顔で接してくださる建設課担当者や医療関係者の皆さんの、今何とかしなければならないという熱意を感じながら、普段の設計打合せとは異なる緊張感の中に、口にはされない痛みが一瞬垣間見えることがあった。

震災で失われた風景と、復興のために失われた風景の移り変わりは、そこに暮らす人々の目には同じように辛く映ったのではなかろうか。震災前なら自然環境保護、生態系保護といって守ってきたものが、町民の命、生活には代えられないと目を瞑らざるを得ない極限の状況のなかで、先祖代々からの木が切られ、山が削られ、視界から消えてしまったことも含め、震災と捉えるべきであろう。町の歴史風土を形作ってきた風景が変わるということの未来への影響は計り知れないはずだ。

2. 地域の「サイクル」を復活させる

「南三陸町医療・保健福祉施設建設事業」として公告されたプロポーザルの意義は、医療と福祉を合築しようとしたところにある。元々過疎地域であったところへ震災によって更に町民の避難転出があり、やむを得ない事情とはいえ、震災後の人口は震災前の79%に減少した[i])。町としては、町民が戻って来るには生活の安全と安心が不可欠であり、そのための医療福祉施設をまず第一に整備する意図があった。

被災した公立志津川病院は、志津川湾から200m足らずの距離にあり、4階まで津波の直撃を受け被災した。移転敷地は、そこから直線距離にして約2km離れた標高60mの高台にある当時災害対策本部の置かれたベイサイドアリーナに隣接する。

町では、この復興拠点東地区に病院・庁舎・住宅を整備し、復興まちづくりの拠点とする計画である。現在新庁舎が今年9月末の竣工を目指して建設中である。

病院に先行して併設された保健福祉施設は、保健福祉課を中心とする行政機能である。地域的に高齢者医療が中心になることは避けがたく、患者にとって治療と介護は一体のものである。非常事態だからこそ組織体制の壁を乗り越える必然と今求められているものの切実感が感じられた。

私たちは病院機能と保健福祉行政機能をつなぐ「みなさん通り」を提案に含めた。町民が戻ること、まちが戻ること、文化が戻ること、提案のコンセプトは「サイクル」。医療から福祉まで人間の一生の流れを、病気にならないようにする保健から、病気になってしまったら病院での治療、回復、自宅へ戻っての療養、介護までの健康維持(未病)のサイクルを地域でつくることを目指す提案であった。

3. 様々な思いのこもった設計条件

本事業における南三陸町の体制は、プロポーザルの審査員長を務められた筧敦夫教授(工学院大学)の指導の下、志津川病院南三陸診療所、南三陸町建設課、同町保健福祉課、医療コンサルタントとしてシステム環境研究所が参画している。震災復興として全国の自治体から人的支援を受け、打合せ担当者も地元の方とは限らない。将来の医療スタッフ確保にも不安を感じながら、一部の診療科の担当医も確定できない状況のなか、何事もより安全にという傾向にあり、面積規模が過大になる可能性があった。旧志津川病院122床から南三陸病院は90床に減床したものの、外来部門各診療科のヒアリングを進めていくうち、理想形を目指すあまり、スタッフが何人いても足りない状態になることが予測された。貴重な義援金や補助金で建物を造っても、復興整備後の運営が先すぼみになっては意味がない。医師が常駐しない診療科の窓口を統合し、身の丈に合ったコンパクトな運用を目指した。

町民がもっとも利用する外来部門と保健福祉課窓口を1階に配置する構成は、間に「みなさん通り」を挟むことにより連続的な一体化を生んでいる。オープニングのイベントで企画された志津川小学校のコーラス演奏が定着して定期演奏会を開いていることは、癒しのアート活動を通じた南三陸に対する地域住民の愛着を素直に感じる。

4. コンパクトな病院の構成

病院の構成は、1階に外来部門、2階に病棟部門、地階に管理・供給部門を配置した。地階といっても敷地に5mのレベル差があるため、三方が開けた避難階である。レベル差を利用して、患者や利用者は1階から入り、2階までを利用する。サービス資材搬出入は地階から行ない、動線の交錯を避けた。

1階外来部門は、ロの字の回廊タイプで中央に処置室、検査室を配置し、内科・外科の診察室と直結する動線の短いプランとした。回廊の患者動線は南面が屋外に面し明るく暖かい陽の光が差し込む。回廊型のメリットは、サインに頼ることなく一筆書きで歩いていけば、目指す診療科にたどり着く。患者の大半を占める高齢者にとって、わかりやすさは重要である。景色が見えることも位置把握に役立つ。

 担当医の熱心な要望に応え、高齢者の健康維持に重要な歯科医療の場をみなさん通りに面して配置した。開院後の利用率は高く、子どもたちの声が聞こえ売店の前ということもあって、にぎやかさを醸し出している。

大きな車寄せキャノピーに面して救急部門を配置した。手術室へは地階までエレベーターで搬送する。無理に1階に詰め込まず、画像診断機能を充実させリハビリテーション科、整形外科との連携を優先したことも、現場の医療スタッフとのやり取りの中で決定してきたことである。

2階の病棟は、一般病棟50床、療養病棟40床で構成される。限られた人数での運営を意識し、スタッフステーションをエレベーター2台で1階外来部門、地階供給部門と直結した。将来病床転換があっても対応できるよう廊下幅は2.7mを確保した。各病棟とも南側を4床室、北側を1床室のユニットとし、スタッフステーションに面しては重症患者向けの観察病床を配置した。看護部との打合せのなかでは便所のあり方に配慮した。震災前より寝たきりの患者を多く抱え、病室では用足しに起き上がることもできない患者ばかりという意見もあった。私たちは回復期リハの経験から、集中便所配置の便房を多目的便所並みに大きくし1スパン以内にたどり着くよう配置した。右麻痺用、左麻痺用の便房内の機器配置を行ない、ベッドからの早期離床と病棟内リハへの誘導を施す工夫である。

最上階に病棟があるというメリットを最大限活かした。外壁面の渚は限られているので、トップライトによる自然採光を随所に取り入れた。4床室の廊下側のベッドにもトップサイドライトを設け、一日のうつろいの変化を患者ひとりひとりが感じられる。3階の高さになると、病室の窓から木々の間に志津川湾が臨める。

地階の管理部門は、大部屋ワンルーム形式とし、スタッフ間のコミュニケーションの風通しをよくする計画とした。事務、看護部、医局が同じひとつの空間の中にある。これは被災時の修羅場をかいくぐった者同士の連帯感が生んだ成果であると同時に、医療体制の変化にも柔軟に対応しうるプランと思う。

図1 1階平面図
写真1 みなさん通り

5. 地域の安心を支える福祉行政機能との複合化

総合ケアセンター南三陸は、行政機能の中から保健福祉機能を抜き出し先行して病院と合築するという秀逸の計画である。 1階のみなさん通りに面して、保健福祉課をオープンカウンター形式のワンルームに配置した。組織変更にも柔軟に対応できる。健診室には、健康管理のための料理教室などを想定し、調理室を併設した。非常時はもとより日常的な集会など多目的に利用できるよう配慮している。

2階には子育て支援センター、地域活動支援センター等を配置。病院に高齢の親を、子育て支援センターにこどもを預けて職場へ通勤するという生活スタイルにとって、利便性が高い。

大会議室はブリッジで病棟と繋がっている。ケアセンター側から病棟へは入れないが、病院側からはブリッジを渡ることができる。大会議室は地域にも開放されているが、病院の研修活動にも有効に活用されている。合築の成果である。

図2 地階平面図

6. 地域資源活用の試み

健全な病院経営を維持する上で大きな課題はランニングコストである。身の丈にあった設計とはいうものの、町の期待は大きく、建設資金については日本赤十字社、台湾紅十字社からの義援金1にも支えられた特別なものであったが、運営は自前である。BCP対策も踏まえ、エネルギーの重層化を図った。電気、LPG、石油、木質系ペレット、太陽光のベストミックスである。その前提条件として外断熱工法を全面的に採用し、建物の高断熱化を図った。

南三陸町では間伐材を利用した木質ペレット事業の実証実験を平成24年から行っており、その成果を元に改めて南三陸病院ケアセンター熱源選定委員会(委員長:工学院大学野部達夫教授)にて、未使用森林資材の活用による地域内エネルギーの循環を図る木質系ペレット事業の導入可能性が検討された。結論として、未使用森林資源は十分な供給量があるが、製造コストに見合う一定の需要量が必要であること、木質系ペレットを燃焼した後の灰に含まれる残存放射能の産業廃棄物処理など、循環エネルギーというには未解決の条件が多かったが、南三陸町は平成25年にバイオマス産業都市構想(農林水産省他関係7府省)の認定[i])を受け、本事業における木質系ペレットを熱源とする給湯システムを採用するに至った。

 

図3 2階平面図
写真2 4床室

7. 記憶をつたえる

南三陸らしさをどこかに、失われた志津川の風景をどこかに残したい。建設が進むにつれ、周囲の風景はどんどん変わっていく。高台移転の予定地はいつのまにか伐採が進み、山が削られ、いつのまにか仮設庁舎の背景に空が見えるようになった。志津川の被災地区は嵩上が進み、毎月現場まで通う道路の位置が付け変わった。

敷地造成の最中、硯石として用いられる粘板岩の岩盤が露出した。できればその石を外壁に張りたかったが、空気に触れると脆く崩れた。同種の粘板岩が採れる県内の石屋を探してもらい、地面に接する腰壁と壁面ボーダーを稲井石の小端積みで仕上げた。左官で仕上げた外断熱の外壁は地層を表す。

外来の待合いと病室に「きりこ」を模したガラススクリーンを設置した。「きりこ」とは三陸地方南部で神社の神職が正月の神棚飾りのために縁起物を切り抜いた半紙のことをいう。無暗に使うものではないとお叱りも頂いたが、元気になってもらいたい意図をご理解いただき製作することができた。

 

写真3 管理部門

8. まち興しとしての医療福祉連携

南三陸町が迎える今後の見通しは決して易しいものではない。町民の復帰、高齢化、医療スタッフの確保、病院経営の維持。南三陸病院と総合ケアセンター南三陸が相互に関連し補完しあって、南三陸町ならではの医療と福祉の連携モデルを作り上げてくことを期待したい。


注1台湾紅十字社を通じての義援金は22億強。建設費56億のうち約4割が義援金によって賄われた。

参考文献

1) 地域医療情報システム:宮城県南三陸町

http://jmap.jp/cities/detail/city/4606(2017.1.30)

2) 南三陸町バイオマス産業都市構想:http://www.town.minamisanriku.miyagi.jp/index.cfm/8,6273,45,html (2017.1.30)

写真4 きりこガラススクリーン
写真5 稲井石壁とボーダー
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株式会社岡田新一設計事務所は、都市や建築の調査、研究、計画、設計、工事監理をトータルに手掛けます。平成26年10月に岡田新一、平成28年10月に岡田弘子 が他界した後、その薫陶をともにした精鋭たちにより継承されており。現在は津嶋功と柳瀬寛夫の社長2人体制で、これからも良質な建築を提案、設計し続けてゆきます。

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